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平和の丘公園

平和の丘公園

長野県下高井郡山ノ内町。人口約13500(平成26年現在)。

志賀高原や湯田中渋温泉郷で知られ、

周りを山地に囲まれ山林原野が約90%を占める緑豊かな町。

四季の自然に恵まれ、都会に比べ時間がゆったり流れているところです。

長野新幹線長野駅から長野電鉄に乗り換えて約40分。

終着駅「湯田中」から温泉街を上ったところに平和の丘公園はあります。

大それた施設はありませんし、

きらびやかなパンフレットを作ったり派手な宣伝もしておりません。

それでも、

志賀高原へスキーにいらした際、温泉につかりに来られた際、

どうぞぜひ、ちょっとだけでもお立ち寄りください。

きっと気持ちが安らいで、そして今よりもっともっと元気になれるかもしれません。

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桜の季節にはイベントも催されます

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湯田中駅前にある立ち寄り温泉。無料の足湯もありますので、電車の待ち時間にもどうぞ。
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アクセス

平和の丘公園への最寄駅は長野電鉄湯田中駅です。
湯田中駅から徒歩25~30分、タクシーで5分。
歩いてこられる場合は、湯田中駅の改札を出て左、ローソンに向かって左に2本目のかえで通りを歩くのがお勧め。
路面にはかわいらしい楓の絵が描かれています。
趣のある造りの老舗旅館等を眺めながらのんびり歩きましょう。
梅翁寺に突き当ったら道なりに右折、平和観音通りに出たら左折。
しばらく行くと左側に案内の看板があります。
楓の湯には電動アシスト自転車のレンタルもあります。

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改札を左に出て突き当たる道路を左。写真内の赤い車の辺りがかえで通り。

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この階段を上ります

山ノ内町までのアクセスはこちら



 湯田中駅 

湯田中駅は長野電鉄の終着駅です。
標高599.76m、長野駅から特急で約45分、駅舎は昭和2年に開業しました。
現在は長野駅で乗り換えなければなりませんが、かつては現在のJRが上野から乗り入れていました。
2006年に工事が行われるまでは、珍しいスイッチバックが行われる駅として鉄道マニアの間で知られていました。
現在の駅舎はこの頃造られた新しいものですが、旧駅舎は現在「湯田中駅前温泉楓の湯」としてリニューアル、旧駅舎は有形文化財として登録されました。
駅舎内の待合室に観光案内所があります。

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駅を横から見たところです。左が改札のある新駅舎(観光案内所はこちら側)、
右は楓の湯のある旧駅舎。終着駅なので線路はここまで。

有形文化財について詳細はこちら

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湯田中駅前温泉楓の湯についてはこちら

各駅停車は東京の地下鉄日比谷線、特急ゆけむりは小田急線のロマンスカー、特急スノーモンキーはJR成田エクスプレスの旧車両を使用しています。
首都圏からいらっしゃる方は不思議な気分になるかもしれません。

大悲殿

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大悲殿(だいひでん)

西国三十三番札所観音、現御本尊、旧御本尊(ぼけ封じ観音といわれている)、厄遂太鼓、仏像技師山田山光師の木造、平和の灯などが展示されています。
遠足で訪れる小学生も多く、子どもたちも金色に光った観音様や大きな観音様に興味津々。
また、山ノ内町には外国人の方も多く住んでいますが、大悲殿にしばしば足を運んでは遠い異国の地に思いをはせ、観音様の前で長い間祈りをささげている人も少なくありません。

<拝観案内>
拝観時間    9:00~16:00
拝観料      200円
駐車場(あり)  普通車5台
お問い合わせ  大悲殿 0269-33-2886


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平和の灯(へいわのともしび)  
昭和63年(1988年)平和の願いをこめ、広島原爆の火を分けてもらい、以来消えることなく灯され続けています。

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厄遂太鼓(やくおいだいこ)
ケヤキの一本胴でできています。一発叩いて身の汚れや厄を落としましょう。
現在このような大きな木は見つけることが困難なため、値段にすると一千万円は下らないといわれています。
一回だけ鳴らせば御利益があるのですが、外国人観光客の中にはこの大きな太鼓に感動し、何度も鳴らしちゃったりする人もいるそうです。

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現御本尊
聖観世菩音菩薩の立像で、横江嘉純(よこえよしずみ S37.2.14死去 元東京・日展審査員)氏作

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旧御本尊 
旧御本尊(ぼけ封じ観音)である旧観世音菩薩は山田山光作。

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西国三十三番札所観音
大悲殿から短い廊下を通り抜けると、観音様の台座部分になります。八角形の台座部分には西国三十三番札所観音がズラリと並んでいます。

西国三十三番札所とは
このような霊場を札所とした巡礼は四国八十八か所が有名ですが、西国三十三番札所はこのような巡礼では歴史がもっとも古く、近畿2府4県と岐阜県にある33か所の観音新婚の霊場を巡り観音菩薩参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされています。
大悲殿では、三十三か所回らなくともいっぺんに参拝できてしまう、というわけです。


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開館時間内は大悲殿には常にスタッフがおりますので、お気軽に声をおかけくださいお手洗いは大悲殿向かって左手にございます。

世界平和大観音

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昭和39年(1964年)ブロンズ製、高さ25メートル、重さ22トン。
平和のシンボルとして、小高い丘の上から穏やかな表情で温泉街を見下ろしています。
現存の青銅ブロンズ製観音立像としては東洋一の高さと言われています。

 観音様は二代目 
この観音様は実は二代目。
一代目の観音様は「護国観世音菩薩」と呼ばれ、現観音様よりはるかに高い33メートルの高さを誇り昭和13年に建立されましたが、戦況悪化の中昭和19年に金属回収令が出され、台座を残し惜しくも解体されてしまいました。
西国三十三ヶ所札所観音、御本尊は回収を逃れました。間もなく終戦になり、細かく解体された観音様は使われずに道端にゴロゴロと放置されていたといわれています。
戦後10年以上たってから再建の声が高まり、山ノ内町町民、全国の有志有縁の人々の多大な協力により、昭和39年世界平和の祈願をこめ7か月の歳月をかけて建てられたのが二代目の現観音様です。


 須坂市の臥龍山に建てられていたかも? 
再建の話は、元の場所ではなく須坂臥竜山でということで発案されました。昭和33年のことです。
弥勒山の残された台座の上には八角堂を建てるという計画があり、もし山ノ内町がダメだったら須坂で…ということになっていました。

 一代目観音様にあった光背はなぜ姿を消した? 
一代目観音様と二代目観音様を見比べると、一代目には光背があるのに、二代目には付いていないことに気が付きます。光背は、仏像などから発せられる光を現したものです。
どうして二代目に光背はついていないのでしょうか?
外見もかなり変化しているので単にデザインの変更かとも思えますが、これについては「世界平和大観音再建記念誌(昭和58年発行)」に記載がありました。
二代目設計の際は、光背のない観音様で建設が着々と進んでいましたが、完了目前になってから関係者の熱い討論が繰り広げられました。後付けになるために、光背をつけるには胴体を強くしなければならず設計をやり直す手間がありました。
「台風や地震時に倒潰、破損などの危険が伴う」「山や雲が自然の光背になるので、野田に建つ仏像には光背を付ける必要はない」という専門家の意見とは反対に「絶対付けるべきだ」という一般関係者の意見もありました。
結局は安全を第一優先とし光背なしの観音様となりました。

 二代目観音様の作者、横江嘉純とは? 

横江嘉純(1887~1962)は著名な彫刻家。現在の東京芸術大学を卒業、1929年から亡くなるまで日展の審査員を務めました。
主な作品は、東京駅丸の内前駅前広場にある「アガペの像(愛の像)」、広島平和記念公園の「祈りの像」、大悲観世音像(諫早市高城町)などがあり、他にも各地に作品が残されています。

祈りの像
広島平和記念公園にある横江嘉純作「祈りの像」
(画像提供:増田裕氏 詳細はこちらの増田氏のウェブサイトへどうぞ

 平和観音と長野市善光寺の深~い関係とは 
仏像などを作ったあと、魂を入れる儀式を開眼供養といいます。
一代目、二代目の観音様とともに長野市善光寺の住職が執り行いました。
そう、平和観音と善光寺は古いおつきあいなのです。
台座から観音様の足元に出る階段の壁に「施無畏(せむい)」とブロンズに書かれたレリーフがありますが、これは善光寺住職が書かれたもの。
文字を右から左になで、そのあと全身をなでると病気が治るといわれています。
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 昭和39年の開眼供養 
観音様は昭和39年6月7日にすべての工事を完了。あとは開眼供養を待つのみとなりました。
昭和39年7月20日大安、連日続いていた雨が上がりカラッと晴れた夏の日、平和大観音落慶開眼式典が行われました。
この日のために、湯田中駅前には大きな看板が設置され、ポスターは3000枚制作され国鉄や長野電鉄、そして周辺市町村に配られました。
午前10時、湯田中駅前から御練り供養行列が始まり、1500人以上の行列が平和観音への道を練り歩きました。
100羽のハトが放たれ、楽隊の演奏が響き、開眼供養の儀式はたくさんの人に見守られながら滞りなく進み、その後の祝賀会、演芸会、全国煙火師競技大会も大盛況のうちに幕を閉じました。
すでにこのときに亡くなっていた制作者の横江嘉純の未亡人も元気な姿で参列されました。
当時の記述や写真を見ると、とにかく町を挙げての大イベントだったようです。

一茶の散歩道

 一茶の散歩道 

大悲殿の脇から入ることができます。
湯田中駅からかえで通りを上り、途中湯宮神社のところから入ることもできますが、大悲殿の脇からのほうが下りになるので楽。整備されてはいますが山道なので、履きなれた滑りにくい靴でお出かけください。

小林一茶
小林一茶は、長野県の柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)の出身です。
湯治のためにたびたび湯田中を訪れては、句会を開いたり旅館の主人や近隣の村人に俳句を教えたりしていました。
一茶が湯田中滞在時に散歩したであろうといわれている道を「一茶の散歩道」と名付け、30分程度で回れる散歩道としました。散歩道にはところどころ全15の一茶の句碑が建てられています。

一茶
宝暦13年5月5日(1763年6月15日)- 文政10年11月19日(1828年1月5日))

一茶の散歩道内・周辺のスポット

一茶堂
昭和31年(1956年)、一茶没後130年の年に一茶の散歩道の中腹に建てられました。

相生の松

雨含の末から一茶堂に向かう間の左側にあります。太いほうは直径約50センチ、寄り添うように生え、高さ4メートルくらいのところで合体しており、H型になっています。
松の木が自然にこのような形になるのは大変珍しいそうです。おそらく若木のときに太いほうの枝が風に揺れ、細いほうの幹を削りくっついたのだろうと考えられています。
二人が寄り添ってしかも途中で一つに結ばれているのは大変縁起が良いと、縁結びの象徴として大切にされています。

雨含の松
町の天然記念物であり推定樹齢280年といわれていた赤松の巨木は、枯死と診断され、2011年11月29日惜まれながらも約2メートルの切株を残して伐採されてしまいました。切株前に「平和・安全を見守り続けた雨含の松は使命を終えここに眠る」という看板が建てられています。
翌年、保存されていた子孫の若木2本が根元に植えられ、成長を見守られています。

湯宮神社
湯宮神社周辺は、もともと古来神の御座所として崇拝の場所でした。
1126年(大治5)「温泉をもって民の病気を治せ」とされた言い伝えがあります。
湯神を湯の里の産土神(生まれた土地の守り神・氏神)としてその所在の地を湯宮と尊称し、岩菅山に置く宮を建立して岩菅大権現を祀りました。
1559年(永禄2)武田信玄がこの地に勢力を拡大してきたことに伴い、諏訪社としても参拝されるようになりました。
また湯の神であるとともに、民に農業や医術を教えて安定した生活を営ませたといわれています。
1873年(明治6)諏訪社を湯宮神社と改称しました。
★境内の祭神
 ・ 秋葉社…火防の神
 ・ 神明社…豊作の神
 ・ 地神社…産土の神
 ・ 金刀比羅社…水防の神
金山社、西乃宮も祀られています。

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動き岩
湯宮神社の裏山、湯宮山にあります。
湯宮山は巨岩や巨石が重なり神秘的な聖域になっています。
大きな立ち岩(夫婦岩)は高さ5・5メートル、この立ち岩の東に烏帽子岩(昔公家や武士が被った烏帽子に似ている)ががり、その2つの岩の間から南に突き出た岩が「動き岩」。
この岩の真下に三角岩があって、その上に動き岩がのっかっているため、シーソーのように指でも動くといわれています(てこの原理)。
別名ガマ石。現在では、立石と烏帽子岩と動き岩の間には、木の葉や小石がたくさん挟まり動かないようになっています。
昔、この岩が割れてこの辺りで大きながけ崩れがおき、村人はこの岩が動かないように神様にお願いしました。
そうするとえらい坊さんが来て「御弥勒(おみろく)様を作ってお参りすれば山崩れが起こらない」と言いました。
その通りに御弥勒様を作ってお参りすると、しばらくして御弥勒様のほうから「石が重いから取ってくれ」と声がするので、村人が調べたところ動き岩でした。しめ縄をかけお参りすると御弥勒様の声がなくなり、山崩れも起きなくなったと伝えられています。
夫婦岩と烏帽子岩は神の磐座(いわくら。御座所)とされています。
この間を通り抜け(胎内くぐり)、動き岩を動かすと子宝を授かり、子供たちは健やかに成長するという民間信仰が伝わっています。

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聖徳太子(厩戸皇子)の碑
湯宮山に職人の神として祀られています。
聖徳太子(厩戸皇子)は多くの寺を建立したこと、造仏を盛んに行ったことから、信仰者は大工・左官・畳屋・鍛冶屋・屋根屋・とび職等の建築関係者や、桶屋・木こり・木挽きなどの職人です。
手のひらで叩くと太鼓の音がすることから、別名「太鼓石」と呼ばれています。

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かえで通り(散歩道外)沿いスポット

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梅翁寺
信州新町牧郷の清水寺を本寺とし、元禄時代(1668~1702)浄泉鞍手のとき、薬師如来を本尊に左に日光菩薩、右に月光菩薩を脇侍とし、12支神を祀っています。
明治に入り、上条村に創設された盛名学校を本校とする湯田中支校が梅翁寺境内に設けられ、現在の山ノ内東小学校の基礎となりました。
境内内にある「湯けぶり地蔵」の肩や腰などを湯に浸した手拭いでさすると、温泉のもつ効能が伝わり「ピンピン・シャンシャン」になれるという言い伝えがあります。この梅翁寺にはたくさんの石仏があり、石仏マニアの人はかなり楽しめるかもしれません。
前に足湯もあるので一休みするのにも最適です。

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ギャラリー湯
梅翁寺の斜め向かい、町消防団湯田中詰所と消防車庫が入っている湯田中共益会館に併設されています。
ここは江戸時代の松代藩主 真田家の御本陣があった場所です。
ギャラリーは建物1階正面玄関の入口左側にあり、もともと梅翁寺にあった一茶像も展示されています。
11月まで町在住の画家、児玉一丈さんによる個展を開催中。
北信濃の原風景と風土性を打ち出した作品18点を展示しています。
※児玉一丈 1946年(昭和21)山ノ内町沓野生まれ。23歳で二紀展には初出展、入選。上野の森美術館絵画大賞展に8回入選。現在も精力的に創作活動中。
◆開館時間 午前10時~午後3時 入場無料


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すばらしい作品がズラリと並んでいます

見崎屋
佐久間象山に儒学を教えた松代藩鎌原銅山の定宿。
現存する建物は明治3年の建築で、玄関から奥庭へ馬が通り抜けられるように、渡り廊下が「引き出し式構造」になっています。
玄関入り口にある素晴らしい草書の看板は、勝海舟、山岡鉄舟と並び幕末三舟と称される高橋泥舟の作。
見崎屋は湯田中温泉で最も古い湯治宿のひとつです。

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高橋泥舟書。

湯本旅館 
一茶の定宿として知られる湯本旅館。
一茶が湯本旅館に滞在した日数は合計で152日にもなるそうです。
当時の湯本旅館の主人である湯本希杖氏との交流は深く、一茶の日記や原稿など貴重な資料がたくさん残されています。
湯薫亭(とうくんてい)としてそれらの資料を公開していましたが、施設の管理・来館者の案内などをしていた人たちが高齢になり運営が難しくなったため、昨年2013年11月閉館となりました。

よろづや
江戸時代後期・寛政12 (1800) 年創業。
昭和14年建築の数寄屋造りの建築物「よろづや松籟荘」、昭和28年に完成した「桃山風呂」は登録有形文化財に登録されています。

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よろづや前にある荘厳な造りの「大湯」

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湯田中温泉で最も古くからある旅館が建ち並ぶエリア

三体しあわせめぐり

 三体しあわせめぐり 
三体(平和大観音・煙草地蔵・弥勒石仏)巡って満願成就!すべて平和の丘公園内にあります。
最後に平和大観音敷地内にあるしあわせの鐘を鳴らすと願いがかなうといわれています。
3か所を回る順番は特に決まっていません。

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平和観音の横にある看板(不明な点は大悲殿内のスタッフまでお気軽にどうぞ)

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しあわせの鐘


弥勒石仏
(災いのないくらし)

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平安時代に建てられたといわれています。
左手は脱落し不明、下半身は地中に埋もれており、全貌はいまだ明らかでありません。
地震除け、また金運をもたらす石仏として信仰されています。
「地表に全身を現わしたときは世界が滅びるとき」というちょっとぞっとする言い伝えもあります。

煙草地蔵(健康なくらし)
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享保16年(1731年)建立。
いつまでも健康で煙草を楽しみたい愛煙家、禁煙の願かけを始め、広くガン封じや婦人病、健康長寿を線香代わりに煙草を備えてお祈りします。煙草を供えて祈る信仰は全国でもここだけといわれています。子供の夜泣き、ひきつけ、虫歯の痛み止めにも効くと信じられています。地蔵の顔には眼鼻がなく、これは老若男女、貴賤の区別なく誰にでも平等に施すという意味があります。

世界平和大観音
(平和なくらし)
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世界平和観音の記事参照

初代観音(護国観音)の作者「山田山光」のおはなし

仏像技師山田山光とは?
山田山光(1871~1944) 名古屋市生まれの職人。本名:山田光吉。
昭和2年の秋に初めて湯田中を訪れ、初代観音様制作のために8人の子どもを郷里に残し妻と2人で湯田中に移住しました。
途中資金困難になり次々に職人が去っていく中、山光は私財までつぎ込み一人で作業を続けました。観音様の解体が決まり、関係者が一堂に集まり最後の大法要が行われたその帰路、友人宅で亡くなりました。まさに観音様と運命を共にした仏像技師でした。
現在大悲殿に自作の木像が安置されています。山光は一般の人でしたが、その木像は僧侶の姿をしています。山光は、その木像を本尊の隣に置くようにと言い添えていたといいます。

山田山光は他にどんなものを作っているか?
(観音様制作以前の作品など)

1、名古屋市南区、道徳公園にあるクジラ像 (昭和27年 1952)
戦前から現在に至るまで地域の人々に親しまれています。
名古屋市の認定物建築物資産に認定、平成22年に名古屋開府400年を記念し行なわれた、名古屋の隠れた魅力を市民が再発見するという「夢なごや400」事業で、グランプリの「どえりゃあ大賞」に選ばれました。
なぜ公園にクジラかというと、このあたりは江戸時代まで海だったところ。
このクジラ、なぜか隠れたファンが多く、個人ブログでもしばしば取り上げられています。

2、愛知県東海市の聚楽園公園にある阿弥陀如来の72尺大仏(昭和2年)。
像高18.79mの鉄筋コンクリート製。1985年(昭和60年)に銅色に塗装し直されているので、見た目は銅製の大仏に見えます。現存していません(平成2年解体)が、大仏前に建っていた27尺(8メートル)の弘法大師像も山光が手掛けています。

3、愛知県西尾市常福寺に50尺の大仏(坐像)当時最先端技術である鉄筋コンクリート工法を駆使 常福寺の刈宿大仏と呼ばれています。像高は7m、基壇をあわせると14m。
昭和3年(1928年)に昭和の大典(昭和天皇の即位)を記念して建てられたものです。

このころは、実業家山田才吉出資の元、後藤鍬五郎というやはり愛知出身の職人とともに仕事をしていることが多く、上記の3つの作品についてはすべて後藤氏と一緒に作業をしたことが確認されています。


山光作・幻の観音像見つかる!
2012年、数年前に廃寺となった牟礼の曹洞宗臨川山観音寺で、山光作の観音像(65センチ)が偶然にみつかり、関係者を驚かせました。
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(当時の新聞記事)
昭和37年に亡くなった門井観牛尼さんという尼さんは、山ノ内町夜間瀬の寺からこの観音寺に入られたとのこと。
「信州大観音作人 山光作」と彫られていることで、世界平和観音制作の後に作られたものだということがわかりますが、他に当時を知る人がおらず、制作年やどういういきさつで作られたかなど詳細は不明です。観音寺の寄進者の記録には山ノ内の住所の人も多く、この寺は山ノ内町と深く関連があったことは間違いなさそうです。
新しい情報が入りましたら更新します!
プロフィール

平和の丘公園

Author:平和の丘公園

長野県下高井郡山ノ内町。志賀高原と湯田中渋温泉郷で知られる町です。
問合せ 0269-33-2886

湯田中駅から徒歩25分。

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