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世界平和大観音

heiwakannon.jpg

昭和39年(1964年)ブロンズ製、高さ25メートル、重さ22トン。
平和のシンボルとして、小高い丘の上から穏やかな表情で温泉街を見下ろしています。
現存の青銅ブロンズ製観音立像としては東洋一の高さと言われています。

 観音様は二代目 
この観音様は実は二代目。
一代目の観音様は「護国観世音菩薩」と呼ばれ、現観音様よりはるかに高い33メートルの高さを誇り昭和13年に建立されましたが、戦況悪化の中昭和19年に金属回収令が出され、台座を残し惜しくも解体されてしまいました。
西国三十三ヶ所札所観音、御本尊は回収を逃れました。間もなく終戦になり、細かく解体された観音様は使われずに道端にゴロゴロと放置されていたといわれています。
戦後10年以上たってから再建の声が高まり、山ノ内町町民、全国の有志有縁の人々の多大な協力により、昭和39年世界平和の祈願をこめ7か月の歳月をかけて建てられたのが二代目の現観音様です。


 須坂市の臥龍山に建てられていたかも? 
再建の話は、元の場所ではなく須坂臥竜山でということで発案されました。昭和33年のことです。
弥勒山の残された台座の上には八角堂を建てるという計画があり、もし山ノ内町がダメだったら須坂で…ということになっていました。

 一代目観音様にあった光背はなぜ姿を消した? 
一代目観音様と二代目観音様を見比べると、一代目には光背があるのに、二代目には付いていないことに気が付きます。光背は、仏像などから発せられる光を現したものです。
どうして二代目に光背はついていないのでしょうか?
外見もかなり変化しているので単にデザインの変更かとも思えますが、これについては「世界平和大観音再建記念誌(昭和58年発行)」に記載がありました。
二代目設計の際は、光背のない観音様で建設が着々と進んでいましたが、完了目前になってから関係者の熱い討論が繰り広げられました。後付けになるために、光背をつけるには胴体を強くしなければならず設計をやり直す手間がありました。
「台風や地震時に倒潰、破損などの危険が伴う」「山や雲が自然の光背になるので、野田に建つ仏像には光背を付ける必要はない」という専門家の意見とは反対に「絶対付けるべきだ」という一般関係者の意見もありました。
結局は安全を第一優先とし光背なしの観音様となりました。

 二代目観音様の作者、横江嘉純とは? 

横江嘉純(1887~1962)は著名な彫刻家。現在の東京芸術大学を卒業、1929年から亡くなるまで日展の審査員を務めました。
主な作品は、東京駅丸の内前駅前広場にある「アガペの像(愛の像)」、広島平和記念公園の「祈りの像」、大悲観世音像(諫早市高城町)などがあり、他にも各地に作品が残されています。

祈りの像
広島平和記念公園にある横江嘉純作「祈りの像」
(画像提供:増田裕氏 詳細はこちらの増田氏のウェブサイトへどうぞ

 平和観音と長野市善光寺の深~い関係とは 
仏像などを作ったあと、魂を入れる儀式を開眼供養といいます。
一代目、二代目の観音様とともに長野市善光寺の住職が執り行いました。
そう、平和観音と善光寺は古いおつきあいなのです。
台座から観音様の足元に出る階段の壁に「施無畏(せむい)」とブロンズに書かれたレリーフがありますが、これは善光寺住職が書かれたもの。
文字を右から左になで、そのあと全身をなでると病気が治るといわれています。
DSC04012.jpg


 昭和39年の開眼供養 
観音様は昭和39年6月7日にすべての工事を完了。あとは開眼供養を待つのみとなりました。
昭和39年7月20日大安、連日続いていた雨が上がりカラッと晴れた夏の日、平和大観音落慶開眼式典が行われました。
この日のために、湯田中駅前には大きな看板が設置され、ポスターは3000枚制作され国鉄や長野電鉄、そして周辺市町村に配られました。
午前10時、湯田中駅前から御練り供養行列が始まり、1500人以上の行列が平和観音への道を練り歩きました。
100羽のハトが放たれ、楽隊の演奏が響き、開眼供養の儀式はたくさんの人に見守られながら滞りなく進み、その後の祝賀会、演芸会、全国煙火師競技大会も大盛況のうちに幕を閉じました。
すでにこのときに亡くなっていた制作者の横江嘉純の未亡人も元気な姿で参列されました。
当時の記述や写真を見ると、とにかく町を挙げての大イベントだったようです。
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初代観音(護国観音)の作者「山田山光」のおはなし

仏像技師山田山光とは?
山田山光(1871~1944) 名古屋市生まれの職人。本名:山田光吉。
昭和2年の秋に初めて湯田中を訪れ、初代観音様制作のために8人の子どもを郷里に残し妻と2人で湯田中に移住しました。
途中資金困難になり次々に職人が去っていく中、山光は私財までつぎ込み一人で作業を続けました。観音様の解体が決まり、関係者が一堂に集まり最後の大法要が行われたその帰路、友人宅で亡くなりました。まさに観音様と運命を共にした仏像技師でした。
現在大悲殿に自作の木像が安置されています。山光は一般の人でしたが、その木像は僧侶の姿をしています。山光は、その木像を本尊の隣に置くようにと言い添えていたといいます。

山田山光は他にどんなものを作っているか?
(観音様制作以前の作品など)

1、名古屋市南区、道徳公園にあるクジラ像 (昭和27年 1952)
戦前から現在に至るまで地域の人々に親しまれています。
名古屋市の認定物建築物資産に認定、平成22年に名古屋開府400年を記念し行なわれた、名古屋の隠れた魅力を市民が再発見するという「夢なごや400」事業で、グランプリの「どえりゃあ大賞」に選ばれました。
なぜ公園にクジラかというと、このあたりは江戸時代まで海だったところ。
このクジラ、なぜか隠れたファンが多く、個人ブログでもしばしば取り上げられています。

2、愛知県東海市の聚楽園公園にある阿弥陀如来の72尺大仏(昭和2年)。
像高18.79mの鉄筋コンクリート製。1985年(昭和60年)に銅色に塗装し直されているので、見た目は銅製の大仏に見えます。現存していません(平成2年解体)が、大仏前に建っていた27尺(8メートル)の弘法大師像も山光が手掛けています。

3、愛知県西尾市常福寺に50尺の大仏(坐像)当時最先端技術である鉄筋コンクリート工法を駆使 常福寺の刈宿大仏と呼ばれています。像高は7m、基壇をあわせると14m。
昭和3年(1928年)に昭和の大典(昭和天皇の即位)を記念して建てられたものです。

このころは、実業家山田才吉出資の元、後藤鍬五郎というやはり愛知出身の職人とともに仕事をしていることが多く、上記の3つの作品についてはすべて後藤氏と一緒に作業をしたことが確認されています。


山光作・幻の観音像見つかる!
2012年、数年前に廃寺となった牟礼の曹洞宗臨川山観音寺で、山光作の観音像(65センチ)が偶然にみつかり、関係者を驚かせました。
newspeper.jpg
(当時の新聞記事)
昭和37年に亡くなった門井観牛尼さんという尼さんは、山ノ内町夜間瀬の寺からこの観音寺に入られたとのこと。
「信州大観音作人 山光作」と彫られていることで、世界平和観音制作の後に作られたものだということがわかりますが、他に当時を知る人がおらず、制作年やどういういきさつで作られたかなど詳細は不明です。観音寺の寄進者の記録には山ノ内の住所の人も多く、この寺は山ノ内町と深く関連があったことは間違いなさそうです。
新しい情報が入りましたら更新します!
プロフィール

平和の丘公園

Author:平和の丘公園

長野県下高井郡山ノ内町。志賀高原と湯田中渋温泉郷で知られる町です。
問合せ 0269-33-2886

湯田中駅から徒歩25分。

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